徒然の記 こぼれ落ちる
昔から、要求された文章を書くのは得意だった。でも、自分の感情の動きをそのまま言葉にするのは苦手だ。いや、不可能である。
大きな感動や心震わす情景ほど、言葉という型にはめれば、そこからボタボタとこぼれ落ちていく。そして残るのは、原型を留めない、よそ行きの表現のみ。
特に"読書感想文"はその繰り返しで、とても虚しい作業だったと思う。評価されても「私が書きたかったのはこんなことじゃない」と歯噛みした記憶しかない。
いつだってありのままの大きさの感情は、私の中だけにいる。外に出したら、別の何かになってしまう。私だけが知っていて、他の誰にだって共有できない。特別で絶望的なことだ。
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最近、「インプット」「アウトプット」という概念が流行っている。恐らく樺沢紫苑先生の「アウトプット大全」に端を発する一種のブームと言えるであろう。
私が気づいたのは流行り始めてしばらく経ったあと。本を読むことや映画を見ること、更にはライブやコンサートに行くことまで「インプット」と言い表された言説に違和感を覚えたのがきっかけだ。
大切なのはアウトプット。アウトプットをしっかりしていなければ、せっかくのインプットの意味が無くなってしまう。
流行らせている側の主張はこうだ。正直、全力で異を唱えたくなった。私が内側に抱え込んだ言葉にならない感情は、意味が無くなるのか?むしろ言葉に出来ないほどの意味があるんじゃないか。
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例えば世間で話題になったツイートなんかに対して、あなたが意見を持ったとしよう。そこから他者の存在を考えた時、あなたはどちらの考えになることが多いだろう?
「私と同じ考えの人って実は居ないんじゃない?」
or
「こう感じてる人、私の他にもたくさん居るんじゃないかな?」
私は圧倒的に後者である。そして、同じ感じ方をしている人を見つけると安心する。
日常のちょっとしたことに対して、もやもやしているとか、実は密かに気に入っているとか。思っているけどわざわざ言うまでもないと見逃していたことを残しておいて、自分の考えの拠り所に。あわよくば誰かの目に止まった時に安心できるものが書けたらいいな、と思ってこのブログを引っ張り出してきた。
いくら感情が削ぎ落とされた言葉でも、それすら残しておかなければ、忘れてしまう。本当に意味がなくなってしまうということに、今更気付いたから。
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とはいえ、日々に忙殺(実際に仕事が忙しいかは別として)されているとなかなか自分の考えてることをきちんと文にする時間はとれないものだなぁ。。ちなみにこの記事は前の記事を公開してすぐ書き始めたものである。